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Dear My Frend

大学時代の同級生に、「福祉用具の製造・設計・販売」要は、オーダーメイドの車椅子を作っている会社を経営している友人がいる。
あ、他にも色々こまごまとやっておりますようです。


ネットやケータイのメール上では「今度久々に会おうよ!」とか「鍋やるべ!(時期的にもうそろそろそれキツいけど)」なんて言いながらも、こっちが勝手に「去年、娘さんも生まれたし、公私共に忙しいんだろうなあ」なんて思って、そんなクソ忙しいであろう彼の時間を割いてもらってまで、こっちの掴み所のない話に付き合わせるのはいかがなものかと、なかなか実際に会って喋ろうよというタイミングを掴めないでおる今日この頃というか半年あまりです。


友人は障害者の生活を支援する側。
こっちは行政やら社会から支援してもらう側。


面白いくらいに立ち位置が逆なんですが、たまに電話で話をするだけでも「支援する側、してもらう側それぞれのジレンマ」や「不安と不満」の片鱗が見え隠れするんです。
きっと会って話したら、俺はただただその情報量に感心して「へー、そうなのかコンボ」を食らうだけ食らってリングアウトエクセレント負けするでしょう。

たくさんの情報を聞かせてもらうだけ聞かせてもらうのは確かにいいことなんだけど、それは相手が行政や障害者支援の中の人だった場合。その人たちは「それが仕事」なんだから、遠慮なく割り切って聞きたい情報を引きずり出すことができるんです。

ただ、相手がいくらそれを仕事のひとつとしているとはいえ「友人」だと、なんでしょうね、なんかこっちもそれなりの「ネタ」を用意していかないと悪い気がするんですよ。

確かに「ネタ」になりそうなエピソードは毎日の暮らしの中でひっきりなしに生まれている。ただ、それを延々と話すよりはテーマを絞って「こんなことがあったんだけどね」と、何か「俺が伝えたい話」をきちんとまとめておかないと、たぶん多忙な友人に悪い気がする。意外と時間って無限じゃないし。


なので、今月中にその「話のタネ」をいくつかまとめて、友人に会いに行こうかと思います。あと「コレってどうなの?」って聞きたいこともちょっと用意して。
たくさんあるような気もするし、一方で「あれ? ネタそんなになくね?」と思うかもしれないけど。

ご多忙かとは思いますが、ちょいと付き合っておくんなさいまし。
そういや娘さんに会ったこと、まだ一度もないや。
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危機の訪れ

「忘れた頃に更新する」でお馴染みの当ブログ。
前回更新したのが2012年7月。おいおい半年以上ぶりの投稿じゃないの。
そんな「半年以上放置プレイ」の記事に、よろしければお付き合いください。


さて。

その半年前に再就職が決まりまして、危なっかしい状態ながらも何とか半年間、現在の仕事を続けております。
「障害者を雇い、一般就職に向けての雇用訓練の場として支援していく」という名目で労働の場を提供する、そんな職場です。

6時間労働、休日は週休二日ですが不定休です。必ずしも土日が休みというところではありません。
幸いなことに、行きはバス一本で職場近くまで行くことが出来ます。
交通費は出ません。「就労支援A型」という今まで聞いたことがなかった雇用スタイルのもと働いています。ざっくり言うと「一般就職に向けてのトレーニング・指導するんで、その費用はかかりますよ」的なスタイルです。
私の場合は、その費用+交通費自腹ということで、総支給額からおよそ1~2万がマイナスされたお金が手元に残る感じです。

そのかわり「トレーニング・指導」という形をとっているので、多少のミスを犯しても、同じ事を何度も聞いてもイライラされることはありません。今までいた職場でよく言われていた「それ前も言ったよね」「何べん同じ事言わせれば気が済むの」という重圧はありません。そういう意味では気が楽です。

で、一般就職から弾かれた者たちの集まる私(心疾患+アスペルガー症候群)の他にも、先天性の聾唖のオバチャン(というよりは「おばあちゃん」)や、突発性難聴になったオバチャンも同じ職場で働いています。
仕事場の上司というか職員(ともに健常者)は、そういった人々にも、傷害を認めて症状を踏まえつつ、仕事の指示を出していきます。

オバチャン方の労働意欲はハンパなく、ひとりは黙々と「これが私のやり方だ」と仕事を進めていき、もうひとりはやや移り気っぽいところがあるけれと「こうすると作業がはやく終わる」と次々と意見を出してきます。だいたい言いっ放しで職員や私にその役目を振るんですけどw
半年経った今になってやっとその人たちの思考パターンが読めてきたので、それに素直に従うか「それもアリだけど、こっちの方が理にかなってるよ」という意思疎通が出来るようになったかな、とは自分で思っています。


とはいえ、最初の3ヶ月間は新しい環境に慣れるのに四苦八苦していました。
朝起きるなり「うわぁ、帰りてぇ」なんてよく思っていました。「帰りてぇ」以前に布団からも出てもいないのにw
また、アスペルガーの悪い癖というか、口の利き方が「ちゃんとした物言いの仕方」と「砕けた物言い」の振り幅が大きく、職員さんにとってはカチンと来る言い方をしてしまったりという衝突が大なり小なりあったりもします。
最近になって「越えちゃいけないライン」ってこの辺かなあ、という察知は出来るようになった… かと思います。


さてここからが本題。

私のようなアスペルガー症候群の人に見受けられる「仕事上のトラブル」ってのが、思い当たるだけでも3つあって、現在はそのうちの1つがもとで、軽く窮地に立たされております。


今日はその1つのお話をば。
「言葉の言外の意味を理解出来ずに、そのまんま言われたことを真に受けちゃう」ことが引き起こしたと思われる自閉症の二次障害の話。

私はもともと心臓が弱いのもさることながら(これは幼少時から言われ続けていたことなので対処法が出来たというか、「もう慣れた」感があるのでここではスルー)、まぁメンタルが打たれ弱いこと打たれ弱いこと。先程も書いたように、目が覚めて布団の中にいながら、気分は「うわぁ、帰りてぇ」スイッチが入ることがあります。

その一方で「でも何だかんだで職場に行けば案外何とか1日が終わって帰ってこられる」ことも体得しているのですが、どうしても布団から出られないことが情けないことに何度もあります。
気分がストンと落ちるんです。充電アダプタからのびているケータイを手繰り寄せ、「すみません今日休ませてください」という突発欠勤コールを月に1回はしていました。その様子はまるで、体の自由が利かない入院患者がナースコールのコードを手繰り寄せてボタンを押すような光景です。

まーこんなことを半年も続けていると、仕事場サイドからの信用はみるみる落ちていくわけで、先日職場の総責任者直々に「もっかいそういうことあったら、ウチで使い続けることは難しいと考えてください」と警告されてしまいました。

それまでは「もし体調が悪いとか気落ちしているときは遠慮なくすぐ連絡ください(面接時に鬱病診断も受けたこともあるとは伝達済み)」と言われていたので、「あかん、今日は行きたくない、ていうか行っても役に立てる気がしない」と思った朝は、ホントに遠慮なく「今日は行けませんすみません」と連絡したつもりでした。

しかし、どうも私が思っていた「もうダメだライン」と雇用側の「こら休ませたほうがいいわ」のラインに大きな差があったんだなと思い知らされました。

そんな最終通告を受けてからまだ半月ですが、明日の仕事に響かないように生活サイクルを少しずつ見直し、ひとまず今に至っています。
今気をつけているのは、とにかく出勤そのものをきちんとすること。
そして「もっかいそういうことあったら、ウチで使い続けることは難しいと考えてください」の言葉を曲解しないで、本当に辛いときでも「職場に行かなあかんのやー」と無理矢理出勤して心身ともに壊さないこと。この二点ですかね。



他にも過去に、雇用者側やダイレクトに連絡取り合ったお客さんとのやり取りを文字通りに受け止めて、後に烈火のごとく怒られた事がありましたが、それはまた、別の機会に。

Keiko my love



「同じ土俵に立つ」とはどういうことなのか。


オヒサシブリデスネー(CV:宮崎吐夢 or 小林賢太郎)」の挨拶もそこそこに。

再就職活動活発化の今日この頃。
ただ単に「そろそろ雇用保険が終わってしまうので尻に火がついた」という状態なんですけど。

生活費の中でも削れるものは極力削らないと、いよいよ「ナマポ」のお世話になるかもしれないと思うわけですが、いくら身体障害者1種1級(心臓)ならびに精神障害者3級(広汎性発達障害:アスペルガー症候群)の手帳がお役所様から交付されていて「たぶん条件的には優勢」とはいえ、そこまでお世話になるまいとは思ってはいるのです。

昨今の生活保護不正受給の話が世間様の耳目を集めてるので分が悪いとか以前に、本音をぶっちゃけますと「俺、あんなぬるま湯につかってたら一生出ねぇ」というベクトルを全力で間違った自信があるんです。


と、いうのも。


ただでさえ、心臓障害で1種1級の扱いというか施しを受けさせてもらって、たぶん地域によっては異なりますが、私の住んでる市の場合は「映画館行っても1,000円」「美術館は無料」「バス電車は半額」「タクシーとガソリン代と等価交換のチケット交付」とか、そんな感じで、世の労働者様が納めて下さった税金で生かしてもらえてます。あと「障害者年金」もあります。


そんな身でありながら
「酒は飲んでるし、今はやめてる(吸ってない状態がかろうじて続いてる)タバコだって吸っていました」
幸か不幸かギャンブルには手を染めていません。
ただギャンブルに関しては「理性」とか「良心」で抑えてるのではなくて「興味がないから・向かないとわかっているから」に過ぎません。その「タガが外れる以前にタガ自体ない」状態であれば、そこにも手を染めていたでしょう。きっと。


お前、生きたいのか。それとも死にたいのか。
「生かされてる」「生かしてもらってる」ってぇ自覚はあるのかぃと。


まぁ、酒飲むな、タバコ吸うな、ギャンブルもすんなとまでは拘束できないでしょう。
とはいえ限度とか節度はあるだろうと。
その反面「バリアフリー」って言葉が「なにそれおいしいの?」レベルからは脱して一般化した(と思う)今では「じゃぁ障害者だってある程度の娯楽遊興も楽しんでいいじゃねぇか」という声もあるかと思います。

でも同時に「じゃぁ障害者にこんだけ施しとかサポートしてバリアフリーにしてんだから、よっぽどじゃない限り健常者と同じ土俵にはまずは立ってもらうぜ」って言われちゃうと、ほかの障害者の方はごめんなさいわかりませんが、私はグウの音も出ないで「すみません『もうこれ以上は無理です』ってレベルまで頑張ってみます」って言っちゃうと思うんです。その結果、心折れるかもしれないけど。

ただ、個人的に大事かなと思うのは「心折れた」という結果よりも「まずは同じ土俵に立ったの?」っていう話。
「『やっぱだめでした』って言うだけの積み重ねや歩み寄りはしたのかねチミィ」という話。


なんでこんな話を、オチというか起承転結もないまま書いたのか、正直自分もわかりませんけど、なんかちょっと「オレ、甘えてるなあ」て話と「だからといってすべての障害者がそうじゃないですからね」って言いたかっただけかもしれません。



すんません、駄文に付き合わせてしまって。

お久しぶりね(ちょっと加筆)

♪お久しぶりね~ ログインするなんて~


「30歳でアスペルガー診断を受けた人の今日までそして明日から」とか銘打って、これまでの出来事をフィードバックしたり、これからどうしたものかと道筋を立てていくつもりではじめたブログ、3ヶ月以上放置ですよ。断じて言うけど悪気は滅法ないんです。やる気はちょっとあるんです。
ついでに言うと、仕事も滅法なくて、時間はたっぷりあるんです。
生まれ持った心疾患のお陰でいただけてる障害者年金と、前の職場の雇用保険で現在のうのうと暮らしております。あ、でも春先に心不全で入院したけどそれはちょっと置いといて。


ここ数年「大人になってから発覚する発達障害」ぽい記事や報道がネットやテレビで散見されます。
子供時代、学生時代は特に目立ったトラブルも、その当事者もストレスなく過ごせていたのに、いざ社会に出て働いてみると次々とトラブルに直面し、終いには仕事場を追われ、新たな職場でもやはり本人は本人なりに努力しているのに、外野からは「お前の使い方がわからない」とか「お前こんなんじゃドコ行っても通用しないぞ」と言われたりして、どんどん自分を責めて袋小路になるあのパターンです。私もそうでした。「そうでした」って書くと、じゃぁ今はそれの傾向と対策を持って社会人生活できてるんですか? って聞かれそうですが、前述のとおり現在無職で求職中です。

現在は雇用保険と心疾患とほぼ等価交換で給付されている障害者年金で、のうのうと暮らしておりますが、雇用保険給付のタイムリミットは刻々と迫っております。

まあその話は書き始めると長くなるのでひとまず置いといて。
すんません、本題に入るまでの寄り道が好きなのでつい長くなりましたが、久々の今回は「なんで30歳になるまで『発達障害・アスペルガー症候群』が発覚しなかったのか」と出来るだけ簡潔に(かつ、寄り道多いので長くなるかもよという予防線を張って)書き記してみます。


さてと。


■0歳(1975年・旭川)
当然ながら記憶にありゃしませんが、後に母親と今は亡き祖母が言うには「この子はこのままだと150日で死ぬ」と医師に宣告されるレベルの重い心疾患を引っ提げて誕生しました。そんな夏の夜。
実家にいた頃に当時のアルバムを見せてもらいましたが、だいたい保育器の中にいた写真ばかりです。


■3歳(1978年・旭川)
「まだ体が小さいのですが、もうちょっと成長した頃に心臓の手術が出来るように、血管を拡張する手術をしましょう」ということで初の手術。
左側の肩甲骨の辺りにいまでもその跡は残っております。

あと、いちばん古い記憶が残ってるのもこの頃。
自宅に貼ってあったカレンダーの「1978」って数字は覚えています。
ただ、あんまし4歳の頃の記憶は残ってないんだよなあ。


■5歳(1980年・旭川)
いろいろな記憶がこの辺から脳内HDDに記録される。
5歳にして郷ひろみが好きだったりしたマセガキだったが、母親が西城秀樹好きだったのも多少影響はあるだろう。

それより特筆すべきなのは「○年○月○日」が未来だろうと過去だろうと、その日の曜日が即答できたこと。
2009年に公開された「サマーウォーズ」に出てきた「モジュロ演算」というなんだか小難しい公式なんか知らなかった頃の芸当だったので、周りの大人(っても当時は祖父母や親戚の伯父・伯母くらい)から「賢い子」とか呼ばれていい気になってたなあ。
ちなみに二十歳過ぎる前に「ただの人」になってしまったので、もう無理。

また、幼稚園入園前までの幼児教育施設「こどもクラブ(いまググッたらまだ現存していてびっくりした)」に行ってたんだけど、「折り紙で犬を作りましょう」というプログラムで「みんなは最初にこう折ってるんだから、僕は違う方法で…」とオリジナルの折り方をやろうとしました。速攻で先生に止められたけど。
グレーゾーンだけど、あの辺から「他の子とはちょっと違う」兆候があったのかもしれないですね。


■6歳(1981年・旭川)
まだギリギリ幼稚園だった頃。
先天性心疾患の手術のため一時期入院。

先生と同級生の園児たちがお見舞いに来てくれて、「励ましの声」をカセットテープに入れて持ってきてくれたけど、彼らが帰るなり、まるで当然のようにお気に入りの郷ひろみのテープをセットしなおして聴きはじめたので、付き添いで部屋にいた親と祖父母が「工エェ(´Д`)ェエ工」のAAそのものの状態になったのは覚えてる。
当人としては疑問も何もなかったんだけど。


■小学生時代(1982年・旭川)
あまりいい思い出はない。
別に「今思えばアレ、発達障害絡みだったのかなあ」という事よりも「この頃の男の子ってワケのわからないことを突然するよね」的な行動が印象に残ってるだけで。
たとえば、自分のアサガオだけなかなか発芽しないのにキレて、授業中飛び出して自分のアサガオの鉢をひっくり返したり… あれ、これ、黒に近いグレー?


■小学生時代(1982~88年・札幌)
たぶん奇行はあったのだろう。いじめられることもなくはなかった。
ただ、転入当初から担任から「心臓が悪い子です」って紹介されてたので、そこそこ大事に扱われていたような。

いじめられるにしても、原因は、6歳のときの手術の事故で声帯を傷つけられてしまい、今で言うハスキーボイス、声変わりするまでは、ヘリウムガスを吸ったような奇妙な声のせいだと思っていた。
あと、当時のギャグマンガの影響も多大に受けていて、そのバカなアクションをよく真似てやってたからだろうなと思っていた。あの頃の男子が「キン肉マン」の技や「北斗神拳」を繰り出す中、こっちは「んちゃ!」だもの。そもそも勝てる気がしねぇw

そして、小学校で真っ先に出来て意気投合した友人が「クラスでブッチギリで浮いてる」子。
「奇人扱い」でからかいの対象になる人はほとんど彼だった。私も十分に「変な子」だったろうけど、「生まれつき心臓の弱い子」な上に、それ以上にインパクトのあるこの友人がいたので、クラスメイトも徹底的にいじるにいじることが出来なかったんじゃなかったのかと思う。

「奇人扱い」されていた友人はいわゆる「天才」で、最古の記憶だと小2の段階で小3で習う「割り算」が解けた。彼はその後、札幌どころか北海道一の名門高校に入学し、ストレートで東大に入り、いまや誰でも知ってるメーカーに勤めている。たぶん今も。

当時の彼の家に行くと、今では知らない人も多いと思うけど「ワニの豆本」だの小松左京の雑学百科だの、いまやすっかりビジネス書になってしまった「宝島」の「VOW(新聞や雑誌の誤植、ヘンな看板を写真に撮って投稿してゲラゲラ笑うコーナー)」の本から百科事典まで揃っていて、それを読み漁ってた猛者である。小学生でだ。
「スネ夫並のひとりっこパワー(実際、80年代当時にしては珍しいひとりっ子)」を垣間見ながらも、小学生時代は足しげく彼の家に通ってそれらの本や、全巻揃った「ドラえもん」や「Dr.スランプ」そして「ジャンプ放送局」の単行本を読み漁っていたものだ。

とにかく彼も「キン肉マン」「聖闘士星矢」といった、当時の男子のハートを鷲掴みにしていたマンガよりもそっちに走った「異端」の子だったと思う。
まあ、私もなんだけど、80年代を過ごしてきた小学生男子にしては「ズレて」いたもの同士、仲がよかった。いわゆる「類友」ってやつだろう。

ちなみに私、5年生のとき限定ですが「定規がないとノートに字がかけない」状態が続きました。
感じの横棒、縦棒をフリーハンドで書けなかったんです。周りからは「几帳面」と言われましたが、あれも「こだわり」の一片だったのかも。



■中学生時代・1(1988年・札幌)
ここでもまあ、自己紹介のあとで担任から「彼は心臓が弱いので」という紹介を受けたので、大事にされた。
いちど、検査入院をしたことがあったけど、担任の奥様も体が弱いということで、非常に心配していただいた。
この頃の自分のポジションは「ちょっと変わったキャラ」だったかなと自認している。

ちなみに小学校時代に仲のよかった友人は隣のクラス。
そして彼は「打倒・旧態依然の生徒会」を目指す人になっていた。
不思議なもので、その友人が住んでいた「歩いて5分の距離」よりも「黒板一枚隔てた距離」の方が遠いのな。

中2の半ば、私の「父の仕事の都合」いわゆる転勤による転校を告げたときは、さすがにお互いショックだった。


■中学生時代・2(1988~91年・千葉)
なんか年数が合わない気がするけどスルーで。
1月から始まる年の数え方と、4月から数える「年度」の数え方がゴッチャになってて私もわからんのですよw

父の転勤の都合で、北海道札幌市から一気に千葉県千葉市に居を移す。

一言で言うと… 心臓病どうのこうのよりも「浮いてた」ねえw
なんつぅか関東の人らはテンポ早いし異世界だった。

同級生たちの興味はマンガや雑誌よりも、テレビ、ラジオ、そしてバンド(イカ天ブームだったし)だったので、北海道札幌市でダラリとしてた身にはもう「目まぐるしい」の一言。
彼らが夢中になっていた「バンド」の中で、唯一自分の中でヒットして、いまでも水面下でアンテナ張ってるのって、大槻ケンヂ率いる「筋肉少女帯」だったもんなー。
周りは「X」やら「ジッタ・リン・ジン」「プリンセス・プリンセス」って頃に。

いま考えるとこのチョイスもヘンだったのかもなw

こういう感じの学生生活が、高校卒業まで続きました。

あ、そうそう。
うっかり中学時代の先生方の口車に乗せられて、中3スタート時に目指してた高校よりワンランク上の進学校に行ったんですけど、ほぼ「ドベ」からのスタートで、勉強に関するやる気を一気になくしました。
なんかなあ、ノートをきれいにまとめた時点で満足してロクに復習しなかったんだよなあ。そんでそのきれいにまとまったノートはクラスの調子のいい奴にどんどん「貸して貸して」ラッシュに押されて手元にないのが常だったし。
あれって、最近の2chまとめサイトで見る「マジメ系クズ」のはしりなんじゃないだろうか。


で、そんな中、高校は2年生のときにまた父の転勤で変わっています。まさかの旭川でした。
「生まれた場所に帰るとか鮭かよ!」って思いながらもホッとしたり。
ただ、父としては「やっぱり子供たちを生まれ育った場所に住まわせたい」と考えてた、的なことを、一度だけ親から聞いたことがありました。


■大学生活(1994年~1998年)
「就職して働くイメージが湧かない」という非常にナメた理由で、地元の私立四大に進学しました。
こればっかりは親に負担かけたなあと思うことがしばしばあります。

進学した学科が「芸術工学デザイン学科」 通称「デザイン科」
こどもの頃から、絵を描くのが好きだったので、そこに行っちゃいました。成績は散々でしたが。

そして「デザイン科」という場所柄「基本、とんがってる奴が集まるところ」なんですよ。
つまり「変わったことしてナンボ」な人たちが集まってしまう場所だったので、私の発達障害による「なんか浮いてる感じ」も、周りの強烈な個性あるいはキャラ作り、そして学生ならではの青臭さの中に埋もれたんじゃないかと思うところはあります。

更にいうと、強烈な個性というか「空気の読めなさ」を持った同級生(卒業して数年後に「発達障害」だということが判明)のお陰もあり、私の奇行なんて「変わっててナンボ」のあの学校では埋もれに埋もれていたんです。

とはいえ、尻に火がつかない限りなかなか行動しないという性分は確かに持ち合わせておりました。
課題だって明日午前9時が提出期限なのに、深夜0時を回った頃から始めるなんて毎週のことでしたし、反面好きな課題は提出期限5分前までホワイト修正入れてこだわりまくって、ホワイト生乾き状態で講師・教授の研究室に直に持ってったりしていました。

まー、振り幅極端でしたw



■総括
ざっくりいうと、幼い頃は「心臓が悪い子だから」と医師、両親、親戚一同、級友、担任そして本人までも、そっちに目が行ってて「多少変わり者」な言行はあっても「いやいやそれよりコイツに激しい運動とかさせちゃダメだろ」というところに注意がいってしまった節はあると思うんです。

心臓病も落ち着いて、その心配も薄らいだ頃は大学生。「とにかく変わりものでナンボ」な環境下にいたので、自分のヘンさ加減には微塵も気づかなかったと思うんです。

ところが社会人になって小さなトラブルから大きなトラブルに直面するようになって、やっと「生きにくさ」に気づいた次第。
その正体を突き止めるきっかけを作ってくれたのが、前の妻でした。


仕事って、学生時代よりも数段に「責任」が重くのしかかります。
当事者がその中に入ってくるまでに先人たちが積み上げてきた責任を一発でブチ壊す危険もはらんでいますし、「お金」も絡んできます。
そして何より、「お客様から得た信頼」だって一瞬で失う恐れもあります。
社会人生活ってシビアだよな。


定型発達者だって失敗はするでしょうが、それをカバーする方法を社会に出る前に身につけているのかもしれません。
もしくは失敗から死に物狂い、またはキチンと分析して「何がまずかったのか」と善後策を見つけて体得してるのかもしれません。

ただ私は、その方法も方向も、いまひとつわかってないみたいです。
自分なりに足掻いてみても、他者からみたら「何がしたいの?」とか「なんでそうしようと思ったの?」って聞かれます。実際、何度もどの職場でも聞かれました。
聞く側にしてみれば質問のつもりでも、こっちには「問い詰められてる」と捉えてしまって、もはや「自分も何をしてるか、したいかわからない」状態になってフリーズします。


あ、生い立ちっぽい話をするつもりが脱線しました。
ひとまず、今日はここまで。

Miracle “Half” Moon

「この話、ブログに書いてもいい?」
「ほいほい」

というSkipeチャットで元妻さんとお話してからもう3ヶ月あまり。
「このままではお蔵入りになる」という危機感を急激に感じて投稿であります。


昨年11月末、元妻さんに「俺がアスペルガー症候群かもって思ったキッカケって何?」と聞いたことがありました。
そういえば元妻さんの勧めで、脳のCT撮ったり、精神神経科の門を叩くことになったんです。
あれが今から6年前、2006年のことでしたでしょうか。

「いつからか」という話になると、あのときの話をします。

 ▼職歴を振り返る その5
 http://ichigyoh.blog.fc2.com/blog-entry-1196.html#comment29

お客様のオーダーを忘れないように、自前で用意したバインダーに、「本来なら私が持ってちゃいけない伝票を持ち歩いてた」事件があった頃です。
私自身は「良かれと思って」やったことでも、組織としては「お前何やってんだよ」と吊るし上げを食らっても仕方ないほどの重大なミスです。

まずこの事件で、元妻さんは「あれ、この人なんかおかしいのでは?」と思ったようです。


その前にあった事例だと

元・お義父さんに「結婚させてください!」と言うまでに30分無言だったことも挙げていました。
まー確かに緊張する局面ですが、私自身は「何から話そうか」でいっぱいいいっぱいだった30分でした。
結論から言えばいいのか、順序だてて言えばいいのか、天秤がピクリとも動かなかったり、動いたとしても激しい揺れで動いてたりで、もう何から話せばいいかサッパリだったんです。

今考えれば「娘が正装した男を連れてきた」って時点でどういうシチュエーションなのか大体わかりきってるでしょうけど、ええ、私それどころじゃないくらいテンパってましたし「結婚させてください」って言うまで脳内パニックでした。

元妻さんにいわせると「今思えばアレも」という感じだったそうです。
ただ、発達障害を疑うのに後押ししたのが、さっきの「伝票事件」だったようで。


そしてダメ押し。
元妻さん曰く、「これはマジかもって思った」のが、
妹(2号)の結婚式騒動。

確か2005年の4月か5月。
私の両親と姪っ子1号(妹1号の娘)が、神主さんの祝詞の最中に大暴れの巻。

まず両親、ちょっと口をつければいいだけの杯の酒を飲み干す行動に。
そりゃ酒好きなのは知ってたけどさ、こういう場面だったらちょっと口つけるだけってのが定石じゃないか?

そして姪っ子1号は、祖母である私の母の「名前(ばーちゃん とかじゃなくて)」を呼んで大号泣。
妹夫婦もつまみ出すかとっとと「ばーちゃん」ことウチの母の隣に行かせればいいのに、やっすい神主さんの祝詞の最中ずーっと大号泣という有様。

ここで元妻さんが「ピン」ときたらしい。
「上の代と下の代がヤバイってことは、真ん中(つまり俺)も?」と。

で、しばらくして私も診断受けて、晴れて「アスペルガー症候群」の診断がおりました。

元妻さんが残念がっていたのは、「アスペって判って、今までの生きづらさの原因がわかったのに、そっからなんで対処しないのかなー」ってこと。

それからウチの一族がヘンだと思ったのはもっと前に感じてたということ。
道内に住むウチの親族が亡くなったことは「メール」で伝えるのに、どーでもいいことで「電話」を寄越すウチのママンてパターンがあって、それで「優先順位違わないか?」と思ったようです。

あとは、妹2号の結婚式終わりでの、私・元妻・連れ子 VS 旦那の親戚による「針のむしろ」のエレベーター。「元気なお嬢ちゃんがいていわねー」とか。
私は「言葉を言葉どおり受け止めちゃう」のでなんとも思わなかったですけど、あれは「痛烈な皮肉のオンパレード」だったと、元妻さんは言っていました。


話が脱線気味、投げっぱなしジャーマン気味かもしれませんが、これが、元妻さんが「俺がアスペルガー症候群じゃないか」と思った、きっかけとなるお話です。
プロフィール

くしぃ

Author:くしぃ
30歳で「アスペルガー症候群」と診断された人の、艱難辛苦を乗り越えられなかったり乗り遅れたり乗車拒否したりしたブログ。



一人称は「いちぎょー」とか「くしぃ」とか。

そのうち統一させます。

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